私の次男にはダウン症があります。
<幼い頃、彼は自分の気持ちを言葉で表現することがほとんどできませんでした。
不安やイライラは、「泣く」「身体を固くする」「ひっくり返る」といった形で表れます。けれど、
それが「何」なのかは、本人にもそばにいる私にも、分からない状態でした。
そんなとき、私は彼の表情や動きに目を凝らしながら、静かに声をかけ続けました。
「怖かったんだね」
「嫌だったんだね」
「今、びっくりしたんだね」
それが正解だったかどうかは分かりません。
それでも私は、感情を言葉という形で一緒に眺めることを続けていました。
そうしているといつも、彼の呼吸は少しずつ落ち着き、身体の力が抜けていきました。混乱していた
感情が、誰かに受け止められたとき、彼はまた次の行動を選べる状態へと戻っていったのです。
■感情を「考えられるもの」に変換する
当時の私は、これを理論として理解していたわけではありません。しかし、後になって、この関わりは
精神分析家ウィルフレッド・ビオンが示した「コンテイナー(container)」の考え方そのものだと知りました。
コンテイナーとは、直訳すれば「器」「入れ物」のことです。
ビオンの理論では、他者の中に生じた未分化で混乱した感情を、受け止め、理解し、意味づけする心の働きを
意味します。ビオンは、患者が体験する不安や恐れ、混乱といった感情は、そのままでは「考えること」が
できないと考えました。そうした感情は、「分析家」という他者によって受け止められ、理解され、言葉や意味を
与えられることで、患者自身がそれを「考えられるもの」へと変換できるようになります。
このプロセスを、ビオンは「思考の誕生」と呼びました。
つまり、ビオンのいう「コンテイナー」とは、感情を引き受け、言葉を与え、思考へと育てる“場”であり
関係性なのです。
■対話における「感情の共有」
言葉がなければ、感情はただの反応にとどまります。言葉が与えられたとき、感情は輪郭を持ち、
「考えられるもの」になります。
感情を「考えられるもの」に変換するためには、まず「感情の共有」が必要です。ビオンも、感情をそのまま
解釈したり整理したりするのではなく、まず受け止めることを重視していました。
コーチングの場でも、クライアントから、
「なんとなくモヤモヤしている」
「理由は分からないけれど引っかかっている」
という言葉をよく聞きます。これは、まさに感情がまだ十分に思考化されていない状態を示しています。
この時コーチは、非言語を読むだけでなく、問いや承認を通して、未分化な感情や想いを丁寧に受け止め、
一緒に眺め「考えられる状態」にしていきます。
対話における「感情の共有」とは、相手と同じ感情を持つことではなく、相手の感情を引き受け、まだ名前の
ついていない感情や、形になりきらない思いにふさわしい言葉が見つかるまで共に考えることだと言えるでしょう。
■前進するために感情を言語化する
次の目標を掲げていきたい、でもなかなかうまくいかない…そんなときに、過去の経験を振り返り、感情を
言語化していくことで、やりたいことが見えてくることがあります。
私自身、長い間、言葉にならない感情を抱き続け、前に進めなくなったことがあります。
あるとき、一生懸命育てたマネージャーが、私の上司を欺いていたことを知りました。そのとき私はその
マネージャーに「裏切られた」と感じました。その後、私は、その出来事に囚われ、うまくできていたこと
すら見えなくなりました。
言葉を与えられていない感情は、内側で膿のように溜まっていき、やがて私は自分自身を否定し、自虐的に
さえなっていきました。
数年後、コーチとのセッションの中で、このときの出来事について「何が起きたのか」「今はどう感じて
いるのか」を丁寧に話す機会がありました。
「自分のなかで、何度も再生されている過去があるんですね」
コーチのその一言で、自分がその出来事に強く囚われていたことに気づきました。
さらに、大切にしていた過去の部下からの寄せ書きアルバムを見返すことで、うまくできていたことにも
目を向けられるようになりました。
すると、「また人を育てたい」という想いが、自然と蘇ってきたのです。
これはまさに、コーチによって感情が受け止められ、言葉を得て「考えられるもの」へと変わった体験でした。
もしこの出来事を言葉にする機会がなければ、私は今も霧の中で自己否定し、前に進めずにいたかもしれません。
コーチングの中で、過去の経験を言語化し、意味づけし直すこと。目標に向かう物語を、自分の言葉で紡ぎ直すこと。
それらはすべて、クライアントの感情を受け止め、言葉を与え、思考の基盤を育てる営みなのだと思います。
問いは、その探索のための灯りであり、沈黙は言葉が生まれる余白です。対話とは、完成された言葉を交わす
ことではありません。
その人自身の言葉が見つかる瞬間に、そっと立ち会うこと。
私は、そうした対話を、これからも大切にしていきたいと思っています。
あなたはコーチとして、クライアントのどのような感情を、どのように受け止めていますか。
日本コーチ協会 正会員
清水 紀榮
コーチングニュース Vol.284
2026年02月26日
