「キャリアチェンジしたいんです。やりたいことなのに徹底できていない
自分がいるんです」
クライアントのAさんは、業務上の専門領域を変えようと、積極的に上司や
人事に相談を持ちかけている最中でした。
そうして行動しているにもかかわらず、Aさん自身は自分の姿勢に納得していない様子です。
「徹底できていれば、考え得る限りの選択肢を行動に移すが、今回はそれができていない」と
いうAさんに、私は問いかけました。
「徹底するのが大事だという考えはどこからきているのでしょう?」
Aさんは、少し考えてから話し始めました。
「幼い頃から、母は私に『人には無限の可能性がある』と繰り返し言ってくれました。
事実、母は私がやりたいと言ったことは、ほとんどなんでもやらせてくれました。なので、
いまでもやりたいことがあると手を出さずにいられません。やりたいことがあったら挑戦
する。それを徹底できていない状態は、我慢がなりません」
私には、Aさんが「可能性は無限だ」という考え方に縛られて苦しんでいるようにも見えました。
同時に、そう強く思うが故に、彼の選択肢が限定されているようにも感じました。
そんなAさんと向きあいながら、これは決して他人事ではなく、私自身の中にも潜んでいる
ものだと直感的に感じました。
ユング心理学とシャドーの概念
Aさんとのやりとりの中で思い出したのは、ユング心理学における「シャドー」の概念です。
ユングのいう「シャドー」とは、『理想の自分』のイメージとは真逆のものであり、自分が
否定してきた自分自身の側面を指します。Aさんの例で言えば、「徹底的に挑戦できていない
自分」がまさにシャドーといえるでしょう。
ユングは、シャドーを否定し続け、拒絶すると、それは他者に投影され、私たちの人間関係に
影響を及ぼすと言います。
私は前職の営業時代、「お客様の機微を察知し、先回りして対処できる営業こそ、優秀な
営業だ」という考えを強くもち、それができなかったときに自分をよく責めていました。
また、それができない部下に対しても、ノーも突きつけることがよくありました。
今振り返ると、「お客様の機微に気づけない自分」こそ私自身のシャドーであり、受け入れて
いない自分でした。
感じの良い人ほど気をつけろ
前職時代、とても尊敬する上司がいました。
彼からは、「営業という仕事で本当に気をつけなければいけないのは、クレーマーのような
人ではない。感じが良い人ほど気をつけるんだ」とよく言われました。
「いいか? 怒ってくれる人はわかりやすいし、言ってくれるだけありがたい存在なんだ。
気をつけなければいけないのは、表面的には感じが良いけど、腹の中では我々に不満を
持っている人だ。こういう人は、気を付けないと何の前触れもなく突然『契約は今期までに
したい』と言ってくるケースがある。だから注意深く観察し接する必要があるんだ」
そう教えられた私は、感じが良いクライアントの発言には、常に「本当にそう思っているのか?
今の言い方は何を意味するのだろう?」と無意識的に考えるようになっていきました。
そうして「お客様の機微を察知し、先回りして対処できる営業が優秀な営業だ」という考えが
強くなりました。
今振り返れば、そのような思考や振る舞いが習慣化することで、更に自分への影響は加速して
いったといえます。
そして、前述した通り、自分や周囲を責めることにつながっていました。
察知していることは必ずしも「事実」ではない
そのような傾向に気づいたのは、コーチ・エィに転職し、コーチとしてクライアントと
セッションをするようになってからです。
たとえば、クライアントの話す声のトーンの低さを察知して「今日のセッションは、あまり
良い時間になっていないのかもしれない」と思い、内心恐る恐る「今日のセッションについて
率直にフィードバックをもらえますか?」と求めることがありました。
そんなときに、私の予想に反して、クライアントから
「こうやって考える機会がなかったのでとても良い時間でした」
と言われるような経験を一度ではなく何度か経験しました。そうした経験を重ねる中で、自分が
機微として察知していることが必ずしも事実ではないことに気がつき始めました。
自分は人に対して敏感になりすぎているのではないだろうか?
もっと相手の言葉を素直に受け取ってもいいのではないだろうか?
本心は察するものではなくて、本人に確かめるものではないだろうか?
これまでの習性が突然変わるわけではないのですが、このことに気づいてから、相手の機微を
察知できない自分や周囲を責めることも減り、何かから解放されたような、心が軽くなったような
感覚を得ました。
そして、相手の本心を探るようなコミュニケーションから、もっとストレートな関わりに
コミュニケーション自体も変化していったように感じます。
あなたはどんな自分に「ノー」をつきつけてきましたか?
ユングは「シャドーを認知し受け入れることが、自己の統合や成長への鍵である」と言っています。
シャドーを受け入れることで、可能性を広げ、より自由で創造的な生き方につながるということ
なのでしょう。
この記事を読んでいるあなたにも、「こうでなければならない」と思っていることがあるかも
しれません。
もしかしたらその後ろには、あなた自身が「否定している自分」が潜んでいるサインかもしれません。
それはどんな自分でしょうか?
ぜひ、あなた自身に問いを投げかけてみてください。
その問いの先に、あなた自身の新たな可能性が隠されているかもしれません。
日本コーチ協会 正会員
學原淳
コーチングニュース Vol.272
2025年06月03日