「コーチとしてのあり方」を探求するとは?

私は、人から「いい人」と言われることがあります。

でも、「いい人」と言われると、なんだかとても居心地が悪くなります。
「いい人」を演じている自分がそこにいることを見透かされている気分になるからです。

私は、商売をしている家の長女として、周りから後ろ指をさされないように「いい子」で
いることを両親から求められて育ちました。「高い倫理観を持った人であってほしい」と
いう期待の中で、そういう価値観を持つ「べき」と思って生きてきました。
でも、私の心の中にはいつも「自由でありたい」「突拍子もないことにチャレンジしたい」と
いう気持ちもどこかにあったのです。

小さな頃から、私の中で「倫理」は「こうあるべき」と外から自分の枠組みを規定されるもの、
つまり「自分を縛るもの」として存在してきました。

そんな私が何の因果か、ICFの認定する集合プログラムで「コーチの倫理規定」をテーマにした
プログラムを2年連続で担当することになりました。

最初は「なぜ、私なんだろう? もっと、適任者がいるはずなのに…」と、なかなか
このプログラムに向き合うことができずにいました。
それは私自身「コーチの倫理規定」は、コーチとしての行動を限定し「コーチを縛るもの」と
捉えていたからです。

そもそも「倫理」とは一体何か?

「倫理」は私にとって窮屈で苦しいもの。

そんな想いを抱きながらも、プログラムのコンテンツ内容を練らなければなりません。
3ヵ月以上も前から、どうしたら学習者として一緒に学びが深まるかをじっくり考えていきます。
そのためにトレーニングを受けたり、書籍を読んだり、同じプログラムを担当する他のコーチと
ディスカッションしたりしました。
その全ての時間は、学びの時間であると同時に、「倫理」と真正面から向き合う苦しい時間でもありました。

「倫理」について考える中で、「倫理」と似た意味を持つ言葉として「道徳」という言葉が浮かびました。
なんとなく違いがありそうだとはわかるものの、言葉では説明できなくて、ChatGPTに聞いてみました。

ChatGPTの答えを要約すると、倫理というのは何が「善い(良い)行動」であり、
何が「悪い行動」であるかを考えるための基礎を提供するもので、道徳というのは、
それを行動レベルに落とした行動規範だということです。

道徳はルールで、倫理はそのルールを決めるための考え方という感じでしょうか。

学びを深めていく中で、コーチの倫理規定も同じことだという気づきがありました。

コーチの倫理規定は、コーチのふるまいとして何が適切で何が適切でないかを判断するための
材料ではありますが、「こういう時はこうしなさい」と具体的に答えを教えてくれるものではありません。
あくまでも、わたしたちがコーチとして倫理的であるための指針となるものです。

倫理規定とは「すべきこと、してはならないことの枠組み」ではなく、内的な自律によって
守っていくものであり、コーチとしての行動を制限するものではない。
どうふるまうかは自分で選ぶことができるもの。そのことに気づいた瞬間、心が軽やかになっていく
のがわかりました。

コーチとしてどのようにありたいのかは、自分で選ぶことができる。
コーチの倫理規定へのとらえ方が変わることで、自分はコーチとしてどのようにありたいのか、
あらためて考え始めました。

自分はコーチとして、どのようにありたいのか?

「自分はコーチとして、どのようにありたいのか?」
この問いに向き合い続けることは、私のコーチとしてのあり方を振り返る機会にもなり、
クライアントと向き合う時のマインドにも影響を与えています。

私は、世の中がアクノレッジメントであふれる世界にしていきたい、そのためにコーチとして
生きることを選んでいます。
なぜなら、アクノレッジメントは、人にエネルギーを与え、前進する関わりそのものだからです。
私も、これまでのたくさんの人との関わりの中で、ありのままを認め、成長や成果、変化や違いに
いち早く気づき、それを言葉にして伝えてもらうことで、前進してきました。

アクノレッジメントは、単純に褒めたり賞賛したりすることではなく、事実を事実として認めること。
相手の承認欲求を満たすためではなく、この世界を共有していることなのです。

コーチとしてのあり方が見えてくると同時に、私の中で「いい人」のとらえ方もバージョンアップしつつあります。
「いい人」を「アクノレッジメントを体現できている人」だととらえれば、「いい人」と言われることを
素直に受け入れられるようになってきました。

「倫理規定」を指針に私はコーチとしての「あり方」を選ぶことができました。

あなたは、コーチとしてどういうあり方を選びますか?

日本コーチ協会 正会員
早坂 めぐみ