私には、娘がいます。
2歳になった彼女は、自分で動かすことのできる体や自分の意図を伝えられる言葉を手に入れ、
動きもお喋りも活発になり、見ていて全く飽きません。
そんな彼女は、日々、部屋にあるものを散らかします。本を部屋いっぱいに広げ、おもちゃを
全て出し切ったあとの彼女は、とても満足そうです。
できる限り彼女のやりたいようにさせてはいるのですが、私や夫が心身共に余裕がない時は
そうもいきません。つい強い言葉で注意してしまいます。
ある日の夕方、保育園から帰ってきた娘は、洗面所で手を洗うと同時に足を洗いたい衝動に
かられたらしく、お風呂場ではなく洗面所に足を突っ込み、「水を貯めたい」と暴れ、
バシャバシャと手足を動かし遊び始めました。
もちろん洗面所は水浸し。
「お風呂へ行こう、ここではやめようか」と何度声をかけても伝わりません。
その時に思ったのです。
「彼女の世界では洗面所も『洗うところ』なのかもしれない。だから、手も足もバシャバシャして
いいところ、と思っているのではないか? 全ての場所が『遊び場』だと思っているのではないか?」
私と見えている世界が違う彼女には、何を言っても伝わりません。なぜなら彼女の見えている世界には
「洗面所は足ではなく手を洗うところ」というルールがないからです。
「そうか、私の見えている世界と彼女の見えている世界は違うんだ」
・部屋を片付けること
・洗面所は足ではなく手を洗うところ
・水遊びは洗面所ではなくお風呂ですること
・リビングには●●を持ち込まない
・食事は机上でする
どれも親である私にとっては当たり前のことであり、常識であり、ルールですが、娘の世界には、
同じ常識やルールは存在しないのです。
相手の世界があることを忘れていないか?
コーチングの中で人との関わりをテーマに話をしていると、「あの人には言っても無駄だ」
「あの人はやる気がない、そんな人に関わりようがない」とクライアントが口にすることがあります。
たしかに、何度言っても伝わらないのであれば、諦めたくなる気持ちもわかります。
私もこれまで周囲の人たちとの間で同じような体験をたくさんしてきました。そして、相手への諦めから
「最低限のコミュニケーションでいい」と関わりを自ら制限してしまうこともありました。
でも、もし、あなたとその人の見えている世界・生きている世界が違っていたら?
あなたが思っている「常識」や「ルール」が、あなたの前提で作られているのだとしたら?
あなたの生きてきた歴史や背景、大切にしてきた価値観やもっている前提と、その人が生きてきた歴史や
背景、大切にしてきた価値観、もっている前提が違えば、二人に見えている世界が違ってもおかしくない
のではないでしょうか。
さらに言うと、全く同じ世界を見て生きている人はいないのかもしれません。
同じ会社、同じ部署にいたとしても、見えている世界は違うのではないでしょうか?
私たちが見ている世界には、見ている私たちの解釈が入ります。それは、私がそうであるように
家族である娘も、そして一緒に仕事をする仲間も同じです。
相手の世界に興味を持つ
自分の「常識」や「ルール」とは異なる行動をする相手を目の前にすると、
「なんでわからないんだ?」
「どうやったら伝わるんだ?」
「関わりや対話を諦めるべきか?」
という問いが浮かぶかもしれません。
しかし「相手の見ている世界は、自分に見えている世界と違うんだ」という前提に立つと、
「今、何が見えているんだろうか?」
「何を大事にしているんだろうか?」
「なぜそのような世界が見えているのか?」
「なぜその世界に生きているのだろうか?」
といった相手への興味・関心をもった問いに変わる予感がしませんか?
娘はまだ2語や3語の短い文章しか話せませんが、大人である私たちは、私たちが思っていることや
感じていることを伝える術があります。
だからこそ、あの人に見えている世界、生きている世界を知る術もあれば、あなたに見えている世界、
生きている世界を伝えることができます。それこそが「対話」といえるものなのかもしれません。
娘からは「これは何?」と日々聞かれます。最近は、目の前で料理をしているときに
「何をしているの?」と聞いてきます。もしかしたら彼女の世界には、「料理をしているお母さん」は
存在せず、ただ単に「何かをしているお母さん」がいるのでしょう。
だからこそ純粋に、「何をしているのか?」という問いになるのかもしれません。
私の目には「あの人は●●をしている」と映っても、その人は実は「▲▲をしている」のかもしれない。
そう思うと、世界の見方が広がるような気がします。
あなたにはどのような世界が見えていて、どのような世界に生きていますか?
日本コーチ協会 正会員
嚴 宗瑛
コーチングニュース Vol.269
2025年05月28日